みまもりカメラで最後の最後のみまもりだったこと
みまもりカメラを導入した理由は
ひとりでいたいという明良じいさんの希望から考えついたことでした。
「本人がそう言ってるから・・・ひとりにしてほっといたらいい!」という意見もあるのですが、実際にほっといて何かあったら、どうしてほっといたの?となるのが普通だなと僕は思うからです。
介護は初めての経験なので僕が思った通りになるかどうかわかりませんが、これまでの僕の経験上では、どうして何もしなかったの・・・・・となることがほとんどだったので考えました。
僕たちとじいさんの場合
認知症が悪化してくると、ひとりにすることは危険です。しかし、本人はひとりにしてくれ!といいます。なんなら、施設でもなんでもいいからひとりにしてくれ!といいます。こんなやりとりを何度もやってきました。
僕とじいさんの場合は、みまもりカメラでこれを解決できました。最後の最後、僕らも寝ないでじいさんをみていたこともあり、とても疲れてきました。そんなときに、家中のカメラをじいさんの部屋に集結させ、様々な角度からじいさんをみれるようにしました。
上からと、両サイドからじいさんが映るようにしました。スマホでは4画面にできるので4つのカメラを一度に見れます。息をしているか、苦しくないかを確認できます。
さらに、動いたら反応するセンサーをカメラの隣に設置。動きがあれば、カメラのセンサーと動いたら反応するセンサー3個が作動します。
それから、僕らと家にいない家族にアクセスしてもらいしばらくの間、一時間か二時間じいさんをみていてほしいと頼みました。その間に、僕らは安心して仮眠ができました。
何か異常があればすぐに電話で知らせるということになっていました。もっと早くに家族みんなでみれるようにしておけばよかったかなと思いました。
じいさんと一緒に暮らしてない、みない家族は今どうなっているのかをいつでもどこでもみれていたら、もっと違うのではないかなと思ったりします。
僕らの場合、じいさんは家にいるみたいだから、「大したことない」と見ない家族は思うみたいです。
具合が悪かったら、病院に入院とか、家では生活できないから、施設とかが普通だそうです。じいさんは入院しても家に帰れたので、たいしたことないと思われていたようです。
だから思います。あのべんまつりとか、転んだりとか、夜中に動き回るなどなど、実況生中継をするべきだったなと思います。
そうすると、どんなことをやっていて、今どんな状況なのかがわかったのではないかなと思います。
ここまできたら苦しくないように
僕たちの最後の目標は、
痰が詰まって窒息しないようにでした。乾燥しないように加湿器を2台、湿度70%でいきました。唇も口の中も乾燥しないようにスポンジが先端についているチュッパチャプスのようなもので潤し作業を行なっていました。
ゲホゲホと言いだしたらすぐにかけつける。というものですが、ずっとみてないといけなくなります。気力と体力がもちません・・・
最後の方は、いつ亡くなってもおかしくない状態でしたので、毎日今日が最後の日かもしれない…と思いながらやってました。へとへとになってきました。(チョコレートとプリングルスの量が増えます。)
家で死ねればそれで満足とじいさんは言ってましたが、僕らはついつい、苦しくないようにと考えてしまいます。
じいさんはいつも苦しくないか?と聞くと、苦しくないといってました。
ぜーぜーいって肺に水が溜まっているときも、苦しくないといいます。
便秘以外は大丈夫!と言います。
よかよか、なんもせんでよか。というのがじいさんです。
便秘以外は。僕たちが後悔しないように、できるかぎりのことをやることにしました。
通常通りです。今回もいつも通りです。
できることを、できるかぎりにです。
もう一度じいさんの希望を整理すると、
- ひとりにしてくれ
- 家で最後を迎えたい
- ほっといて
- でも、みてくれ!
さすがに最後の40日間は僕らも体力の限界に達してきました。
みまもりカメラの最後の場所は、じいさんの部屋でした。
ほとんどのセンサーもここに集結でした。
カメラとセンサーのおかげで、家にいない家族にも協力してもらい見てもらうことができで安心でした。
ずっと部屋に誰かいなくてもいいので、僕たちもじいさんもよかったなと思います。
こんな使い方もありだなと思いました。
こんどこそは今日からこれまでの記録を掲載していこうと決意しています。いつも見ていただきありがとうございます。
以上今日のご報告になります。
- 自宅で介護なら冷蔵庫は2つ必要
- みまもりカメラで最後の最後のみまもりだったこと
- 無駄に過ごす日は誰かの最後の日という話について
- 死というものはどんな意味があるのかという話を、僕が尊敬している社長さんからいただきました。
- 今じいさんは、たぶんこうじゃないかなと思うこと。